高知からの上京後、「某メーカーの衣料品を売り子を使って売り捌く商売や、手持ちの金を短期間貸し付けることや色々な商品の推薦人に名前を貸すこと」など、つぎつぎに手を出した商売でつまづき、「町の金融業者から高利の金を借りて急場をしのごうとした」返済不能の借金地獄。底を這うような窮乏生活。
「46歳の背水の陣」がなぜ、功を奏したのか?
この質問に元筑摩書房編集者の高橋さんは「長年の文章修行」と回答。「宮尾さんは言葉が泉のように湧いてくるタイプではない。暇さえあれば、広辞苑から言葉を拾い語彙ノートに書き込んだり、内外の小説を読んでは吸収したことを『読書録』に写したりする努力を重ね、これに人生体験が加わり非凡な力を蓄えていた。だから、46歳でつかんだチャンスをその後も生かせたのだろう」と証言した。
高知市内にある高知県立文学館で「宮尾文学の世界室」を担当する学芸課の岡本美和さん(41)に同じ質問をぶつけてみた。「自分が隠していた家業や出生の秘密をさらけ出して母への鎮魂歌を書いたことで、作品の質がグーンと高まった。」つまり、身を切る覚悟が道を開いたと岡本さんは言う。
「櫂」に続く二作目「陽気楼」の舞台となった高知市内の料亭、得月楼の会長(5代目)松岡英雄さん(73)からは、丁寧な取材ぶりのエピソードを聞いた。邦楽をテープで聴き漁り、歌舞伎座や国立劇場で得月楼の芸妓が舞っていた踊りを目に焼きつける。高知に飛んで、昔の事情を知る芸妓や娼婦にたっぷりインタビュー。古くからの馴染み客には得月楼に集まってもらい、ひとりひとりの話に耳を傾ける。こうした取材姿勢をその後も貫いたことが、背水の陣を成功に導く助けになったであろう。
「地道な文章修行」「自らの隠し事をさらけ出す度胸」「丁寧な取材姿勢」。背水の陣の成功の要因として挙げられたのは、この3つ。それに加え、日記から浮かぶのは、窮地に追い込まれたときに発揮する「芯の強さだ」。
上京後の窮乏生活の中で、弱音を吐かずに夫婦でコツコツ働き、少しずつ借金を返済する。何とか1冊、自分の本を出そうとして出版社に持ち込んだ小説の原稿を次々突き返されても、小説家の道を諦めない。ニキ作家になってからも、たびたび重い心臓神経症に襲われたものの、大作を書き続ける。貫いているのは強靭な意志なのである。
3月末、登美子が背水の陣をしいたころ住んでいた東京都大田区の南六郷の二丁目公団住宅(UR)と「櫂」を書き上げた長野県軽井沢町の別荘付近を歩きながら自問した。おまえは登美子のように思い切った背水の陣を敷いたことがあるか?
得月楼の料理。登美子はよく得月楼を訪れ、料理を懐かしんだ。
高知旅行のきっかけになった。まずは、小説「櫂」から読んでみよう。
コメントをお書きください