https://www.nikkei.com/article/DGKKZO59824890Y2A400C2MY6000/
加藤直人『メタバース さよならアトムの時代』(集英社・2022年)は、メタバースプラットフォームを運営するクラスター(東京・品川)の経営者が語るメタバース論。同書が掲げるメタバースの条件でユニークなのは、よくある定義に「身体性」と「自己組織化」を加えたことだ。前者は、画像や音声が作り出すメタバースの環境の中にいるユーザーが、その世界における身体を所有したかのような感覚を持つことを指す。起業前には引きこもりで、インターネットにどっぷり浸(つ)かっていた加藤は、その時に不満だった身体性の欠如がメタバースでは回復されると主張する。
もう1つの「自己組織化」とは、メタバースではプラットフォームの提供者から独立してユーザーが独自の活動を展開し、自律的に経済が発展していくことだ。加藤は、クリエイターが中心となったメタバース版の第1次~3次産業が立ち上がり、いずれはリアルな産業を凌(しの)ぐほどに育つという。
●潜在人格に機会
一方でメタバースの「住民」側の視点から書かれたのが、VTuber(バーチャルユーチューバー)として活躍するバーチャル美少女ねむの『メタバース進化論』(技術評論社・22年)だ。みんなでメタバースに入ったまま就寝する「VR(バーチャルリアリティ)睡眠」や、次第に触覚などを感じるようになる「ファントムセンス」といった、加藤の「身体性」と呼応する体験談はもちろん、既存のユーザーを対象にした大規模な「国勢調査」の結果が面白い。厳密な社会調査ではないが、男性の76%がアバターの性別としては女性を選ぶという。
このようなアバターの在り方を、ねむは作家の平野啓一郎が提唱した「分人」の概念を引いて、1人に潜在するいくつもの人格の1つが具現化したものと見る。メタバースは、1人のユーザーが複数の「分人」を切り替えて人生を送る機会を与えるという見方だ。その先には、個人の代わりに分人を基本単位とする「分人経済」が誕生すると予測する。
●メディア感消失
メタバースを支える基盤技術としてのVRの本質に迫る書籍もある。ジェレミー・ベイレンソン『VRは脳をどう変えるか?』(倉田幸信訳、文芸春秋・18年)は「仲介役(メディア)のいない幻影」という言葉で、VRの特質をうまくとらえている。
テレビやウェブなど既存の情報メディアでは、ユーザーはメディアの存在を意識する。ところがVRでは、メディアを通じて情報を得ているという感覚が消失する。VRのコンテンツは、ユーザーにとって現実の体験なのだ。
1980年代にVRという言葉を生み出した技術者ジャロン・ラニアーの『万物創生をはじめよう』(谷垣暁美訳、みすず書房・2020年)は、VRを「スキナー箱」にしてはいけないと警告する。条件反射の実験に使う装置のことで、VRがユーザーを操って無批判な行動に駆り立てる手段とならないよう戒めている。ラニアーの願いは、ユーザーが楽器を操りそれぞれの音楽を奏でるようなVR技術を作り上げることだった。
VRを一度も体験したことのない人にとって、こうした将来像は理解し難いかもしれない。筆者もある投資家から、「メタバース関連企業に出資したいが、相手と話がかみ合わない」と相談を受けたことがある。彼にはまずビジョンを共有すべきだと助言した。推進派の理想は、メタバースの語源となったニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』や漫画からアニメにもなった『攻殻機動隊』などSF作品の世界観にある。まずはこれらを手に取り、「同じ釜の飯」を食べてみてはいかがだろうか。
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