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持続可能な観光めざす タイ

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO59116890W2A310C2EAC000/

 

新型コロナウイルスの感染拡大で年間約4000万人いた外国人旅行者がタイから消えた。観光収入が減る一方、過剰な観光客で疲弊していたビーチは本来の生態系を取り戻しつつある。タイ政府は「量より質」の観光へと切り替えを急ごうとしている。

美しい秘境のビーチを舞台にしたレオナルド・ディカプリオ主演の映画「ザ・ビーチ」。ロケ地となったマヤ湾(タイ南部ピピ諸島)は1月、約3年ぶりに観光客の受け入れを再開した。エメラルドブルーの透き通った海に無数の魚がひしめく様子に、上陸した観光客は一様に息をのむ。

映画の公開後、一躍有名になったマヤ湾はオーバーツーリズムの影響を受けてきた。ピピ諸島の観光客数は2018年までの5年間で13倍の180万人超に膨れ上がった。入場数に制限がなく、ピーク時には1日4000人の観光客がボートでマヤ湾に乗り付けた。サンゴ礁は絶えず往来するボートのいかりで傷ついた。サメの一種、ツマグロなどマヤ湾に生息していた海の生物は姿を消した。

18年6月にはマヤ湾への立ち入りが禁じられた。措置は当初4カ月間の予定で始まり、その後無期限閉鎖になっていたが、22年1月に環境保護の対策を講じたうえで立ち入りが再開された。

ビーチに入れる人数は1時間あたり最大375人に制限した。サンゴを破壊しないよう、観光客を乗せたボートは湾に直接入らず、島の裏側の専用埠頭に客を降ろす。湾内では泳ぐことを禁じ、サンゴの白化の原因とされる化学物質を含む日焼け止めの使用も禁じる。

現地でツアーガイドとして働く男性(28)は「閉鎖前に比べ、海は格段に美しさを取り戻している」と笑顔を見せる。「ツマグロも戻ってきた。早朝に来ると100匹近く泳いでいることもある」

観光客も理解を示す。約10年ぶりにマヤ湾を訪れたというアルバニア出身のロバート・コモラさん(52)は「泳げなくても今の状態の方がずっといい」と話す。「以前来たときは観光客ですし詰め状態だった。環境や魚のことを思えば規制は納得できる」

タイは1980年代から本格的に海外に向けた観光キャンペーンを展開し、観光客を呼び込んできた。81年に約200万人だった外国人観光客数は新型コロナ前の19年に約4000万人に達し、観光業はタイの国内総生産(GDP)の2割を稼ぐ基幹産業の一つに成長した。

ただ、観光客の急増は副作用も招いた。マヤ湾の閉鎖はその典型例だ。タイ政府観光庁のタネート副総裁は「新型コロナ危機はやり直すための絶好の機会だ」と語る。「タイの観光産業は量から質に転換しなければならない」

タイ政府は旅行者1人あたりの消費額の引き上げを目指す。その戦略の一つが地域の食材を味わいながら観光する「ガストロノミーツーリズム」だ。タイ政府観光庁は21年、グルメ本「ミシュランガイド」の発行元と少なくとも26年までタイ版の発行を続ける契約を結んだ。食に関心の高い旅行客を誘致して飲食への出費を促し、旅行者1人あたりの消費額を増やす狙いだ。

医療サービスと観光を組み合わせた医療ツーリズムにも力を入れる。21年にはタイで美容整形やアンチエイジング、がん治療やリハビリなどを受ける人向けに医療ビザの発行を閣議承認した。心身の健康に向けたサービスを提供する「ウエルネスリゾート」への滞在も促進し、外国人富裕層の呼び込みを狙う。

外国人旅行者を対象とした観光税も22年内に導入する方針だ。1人あたり300バーツ(約1000円)を入国時に徴収し、収入の一部を観光地の環境保全や施設整備にあてる計画だ。

過剰な観光による環境破壊や新型コロナ禍を通じて、タイの人々の意識は変わった。1月にはタイ南部クラビ県が「環境に損害を与えるリスクに見合うほどの価値はない」として米国の巨大サメ映画の撮影申請を却下した。

タイを代表する観光地、プーケットの観光協会会長を務めるプームギット氏は「コロナ後はより責任ある観光を追求しなければならない」と語る。「収入は必要だが、バランスが重要だ。自然を守り、現地の文化を尊重するよう観光客を啓発することが大切」

足元では世界各国の渡航制限が徐々に緩和され、タイにも外国人旅行者の姿が戻り始めている。目先の利益にとらわれず、持続可能な新しい観光産業を築けるか。新たな政策の真価が問われるのはこれからだ。